102)東日本大震災 復興ボランティア活動 その4
被災した方からいただいたミサンガの写真
被災した方からいただいたミサンガ 
2013年11月19日〜11月23日まで岩手県久慈市の健康ランド古墳ノ湯をベースに復興ボランティア活動を行ってきました。

「古墳ノ湯」は震災直後から営業していた宿泊可能な入浴施設です。2011年4月に行った最初の野田村でのボランティア活動の際、テント生活をしながらも隣町まで日々12km程の距離を通い入浴利用させてもらいました。今回は泊まりで三泊利用させてもらいました。

ちょうど一年前に肉体労働系の活動をがんばりすぎた為か?ひどい骨髄炎になり長期入院する事になり退院後も金抜手術を受けてのリハビリなどを続けて復帰の足踏みが続いていました。

10月一杯でリハビリが終了し雪の季節が近づく中、天候を見ながらギリギリのタイミングで行く事ができました。

昨年は復興ボランティア活動の受け皿となるベースキャンプ「かわいキャンプ」があったので、装備を持って身体一つでそこに行けば即活動出来たのですが、残念ながら今年の3月で閉所しています。

今回は一年ぶりの活動再開に向けて現地の様子伺い的な活動です。昨年の活動の帰りしな次は大型バイクで余裕で来ます〜、と言ってきた元気な姿を見せる目的もあります。
2013年11月19日火曜日
救急救命病棟前に停めたバイクの写真
今回も救命救急病棟の前からスタートする。1999年に「がんばれ難病患者日本一週激励マラソン」で社会活動する為にホンダ技研工業さんから寄贈されたアフリカツイン。日本中で人の善意を見てきたバイクと共に復活する。

入院当初より考えていた病院を卒業する自己満足という厳格な目標だ。二年のループを介して事故直前と時間が完全に繋がった。今日で病院周回軌道を離脱する。

エンジンを掛けて、ギアを入れて、クラッチを繋いで、アクセル開いて加速する。蛍が狐を呼ぶような控えめな排気音、力強い加速、8年ぶりのアフリカツインの復活。当時の記憶も蘇る。

23時59分苫小牧港発、翌7時30分八戸港行きのフェリーに乗って北海道を離れた。
吉里吉里海岸防潮堤の切れ目に止めたバイクの写真
吉里吉里海岸入り口、防波堤の遥か上の陸橋のフェンスが津波で曲がったままになっている。ちょうど一年前の海岸清掃で「ツルハシフルスイング」が懐かしい。
復興食堂よってったんせいのテラス席の写真
吉里吉里復興食堂のテラス席でいただく三陸ワカメラーメン
きのこたっぷりのひっつみ汁の写真
大槌町きらり復興商店街でいただくひっつみ汁。舞茸と落葉系きのこの出汁が効いた汁と弾力のあるひっつみが良く合う一品。
ハンドドリップコーヒーとショートケーキの写真
大槌町きらり商店街でいただくケーキセット
豪華な夕食の写真
野田村レストランみなみでいただく煮込みハンバーグ定食。野田産ほたてのお刺身と鮭の白子串焼きが付いた豪華版、ノンアルコールビール風飲料でそれぞれいただいた。
鮮魚店の二階にある野田村みなみの外観写真
みなみの一階は魚屋さん。震災当時一階は水没した
あわびのとしろの瓶積めと酒の写真
魚屋さんで酒のあてを買って宿でいただいた。さすがに一度に全部は食べきれないので、そのほとんどを宿の人に差し上げた。漁師の方で好物だったらしく喜んでくれた。
海草たっぷりのホヤラーメンの写真
メニューを見て「ほやラーメン」を頼むと、「今日はあるかな〜」と階下の魚屋さんを見に行った。程なく新鮮なほやを手に上がってきて厨房へ・・・海鮮ほやラーメンの出来上がり。飲む前のお腹作りや飲んだ後の閉めに最高の一品。麺を手繰りスープを飲んでお腹を作り、そのまま具材をあてに酒を飲み始める。そんな酒の相手もこなせる万能選手だ。味のアクセントの一工夫も効いている。
吉里吉里の復興食堂よってったんせいのテラス席で頂くご当地グルメの写真
吉里吉里復興食堂のスペシャルメニュー鮭親子ヤキソバ
三陸わかめを練りこんだこだわり麺を鮭の油で炒め地酒で蒸し上げる。手間を掛けて作るごちそうヤキソバ。イクラが口の中でプチプチ弾けるうまさ。
2013年11月23日土曜日
フェリーターミナル夜明けの写真
午前6時苫小牧港到着。今回久慈をベースにしたので宮古、大槌と約130kmを三日連続で三往復した。やはりアフリカツインは頼りになる。駆け足ながらあちこち顔出して話を聞いて次の活動方向が見えてきた。
志満タンの封筒の写真
震災当時の3月に自分の所属する会の総会の終わり際、会員の中に震災ボランティアに向かう者が少なからずいる事が判った。急遽全員から義援金を募り、現地入りするメンバーに手分けして託したのがこの封筒だ。

会として組織的に震災ボランティアを行う事は難しいので行ける人に託そうという事になった。これは満場一致の議決で決まった正式な委託だ。

義援金とあるが赤十字に寄付とかでは無く、それぞれが現場の判断で活用する。自分の場合「半分ルール」で使っている。それは一度に全部使ってしまわずに、一回に半分を上限に使う。そして次はさらに半分、その半分といった感じで半分の使用を連鎖していく。

それは自衛隊のレンジャー部隊の教官だった知り合いから教えてもらった本気の非常食の食べ方を参考にしたものだ。これだと理論上食料が尽きる事は無い。

そして帰ってきたら「うなぎ屋のたれ」のように減った分を継ぎ足すわけだ。そうして秘伝の味を守り続ける。当初託された皆の気持ちが生き続ける。

額面¥10、000‐とあるがそれは当初の金額で実は封筒の中には他に山の先輩や仲間から託された寄付や寸志など数枚の封筒も入っている。後に入院見舞いも追加されることになり、中には「酒以外の事に使うように」と書かれた封筒もある(笑)

実はバイク事故の際、腹側に付けたウエストバッグの中にこの封筒が入っていた。衝突の瞬間、封筒に魔法が掛かり鋼の強度になって内蔵を守ってくれたものだと思う。

すでに4回被災地に行っている封筒はかなりくたびれてきた。それでもジップロックに入れて保護して連れて行く。中身も気持ちもまだ満タンだ!
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