96)東日本大震災 災害ボランティア活動

2011年3月11日に発生した東日本大震災に因る津波被害を受けた岩手県北部の被災地で一週間程(4月14日〜23日)震災ボランティア活動を行ってきました。
出発前に協力をいただいた 北海道山岳ガイド協会様 マウンテンガイドコヨーテ古市様 札幌山岳ガイドセンター斉藤様 バイクショップノルトバーン様 ありがとうございました。
 10日間自給自足で活動きる装備を持ってバイクで現地入りし、岩手県北部の野田村社会福祉協議会災害ボランティアセンターに登録し、瓦礫の撤去、泥出し、清掃、荷物運び等の力仕事や、写真の整理といった手先を使う作業を一週間程手伝ってきました。 

野田村は村の中心部まで津波に飲まれ甚大な被害を受けました。死者は37名、行方不明者は早い段階で全員発見されたことから瓦礫撤去に重機が入り米軍の応援も得て、比較的他の地区より作業が進んでいました。

主な道路の通行は回復し、水道、ガス、電気といったライフラインも復旧し、一階部分が水没した役場も消防署も機能を回復し、プレハブのボランティアセンターも立ち上がり、復旧に向けて動き出していました。 しかし個々のお宅については手付かずの所も多く、「解体OK」と赤スプレー書きをされた建物が多数見られます。

家を失い避難所生活を余儀なくされている方々が多数おられます。救援物資については山積みに集っており、保管場所も手狭になりつつあるように見えました。

県外からのボランティア活動は原則朝の9時から夕方4時までとなっていました。流れとしては朝9時にボランティアセンターで受付を行いボランティア登録を行い、前日までに上がっているボランティア要請のニーズ票に合わせて、コーディネーター役が手分けして人員を振り分け、即席チームを作って現場に向かい活動を行い、作業が終了したらボランティアセンターに戻り、報告をして解散となります。

役場から徒歩10分の指定された場所にテントを張る事が出来たので移動を含めて無駄の少ないスムーズな活動をする事が出来ました。

現地に一週間滞在して作業する事で内側から様々やるべき事が見えてきました。しかしそれらをやりのこしたまま現地を離れるという心苦しさがありました。比較的復興が進んでいるといわれる場所でさえこの状態であるならば、まったく作業が進んでいない場所を想像するに難くありません。長期的な支援が必要であるとあらためて感じて札幌に戻りました。
作業最終日の終わりに 撤収日の朝 積載状態 テント設営状態
 
以下詳細です。
 
感謝
北海道山岳ガイド協会様からお預かりした清財は、スコップ、箒、つなぎの作業服、作業合羽、安全長靴、釘の踏み抜き防止の鉄板中敷、水産加工用超ロング防水グローブ、一般耐油防水グローブ、細かな作業用の薄手のニトリルゴムグローブ、工業規格の防塵マスク、防塵ゴーグル、飲料水用の18リットルポリタンク、行動食等の活動物資の購入に使わせてもらいました。ありがとうございました。
マウンテンガイドコヨーテの古市様よりお預かりした清財は「これで何か食べて下さい」とのお言葉に甘えて、野田村で営業を再開した 洋食 旬彩料理「みなみ」で美味しい夕食を食べる為に使わせてもらいました。ありがとうございました。
札幌山岳ガイドセンター斉藤様よりお預かりした清財は「好きに使いなさい」とのお言葉に甘えて、同じく野田村で営業を再開した 洋食 旬彩料理「みなみ」にて、被災地の酒蔵の製品、被災地の食材加工品の売り上げに貢献する事に使わせてもらいました。ありがとうございました。
大曲のバイクショップ「ノルトバーン」様 より協賛いただいたバイクのバッテリー(時価約2万円)により、被災地では極力騒音を抑える為にエンジン回転を低く抑えた走りをする事により生ずる発電不足について、充電済み新品バッテリーの能力により余裕をもってトラブル無く運行する事が出来ました。ありがとうございました。
青森市内の稲作農家の方、突然の訪問で飲料水を分けていただいた時、お米で作った自家製の貴重な携帯保存食を持たせていただき、ありがとうございました。
野田村 洋食 旬彩料理「みなみ」様 日々丁寧なおいしい食事をありがとうございました。その純朴な人柄に癒されました。遠くから応援しています。
津軽海峡フェリー函館ターミナル売店担当者様 重要な情報とお気使いありがとうございました。
 
そのほか沢山の方々の支えがあって実現した活動です。ありがとうございました。
 
出発前段階より
1)札幌市社会福祉協議会(大通西19丁目)にてボランティア保険に加入、これは一般的な社会活動ボランティアを行う上でのトラブルに備えた簡易的な保険と今回の地震や津波等の災害ボランティアのような危険度の高い作業に対応したものがあり、天災型という災害ボランティア対応保険に加入する。(1年/1400円程度) ここでは被災地の情報については、ほぼ無い?様子
 
2)札幌エルプラザ札幌市民活動サポートセンター震災ボランティア特設デスク(札幌エルプラザ2F)にて被災地の情報を伺う。ここでは主に札幌を出発するグループメンバーの募集などの情報がありました。「被災地で炊き出しを行うサポート要員の募集等」ここでは個人ボランティアについての情報は少なく、実際には個々に各県の社会福祉協議会のボランティアセンターにて直接現地の情報を調べ、現地に出向きボランティア登録を行って活動を行うという流れになるようです。
 
3)インターネットにて各県の社会福祉協議会のボランティアセンターを調べると、宮城県については広く県外よりのボランティアを積極的に受け入れているようです。岩手県はそれについて積極的ではない感じです(4月中頃の情報にて)県によって地域によって対応が様々です。さらに時間の経過と共に要求も変化するので、状況に応じて柔軟に対応出来る体制を持って現地入りする事が望まれます。
 
4)一番キツイ作業、瓦礫、泥出し、等に対応する装備を持つ。作業つなぎ、アンダーウエァー、汚れても破れても惜しくない雨合羽、釘の踏み抜き防止鉄板中敷入りの安全長靴、ヘルメット、ヘッドランプ、防塵ゴーグル、工業規格品の防塵マスク、水産加工用の超ロンググローブ、通常の耐油グローブ、細かな作業が出来る薄手のグローブ、タオル、ティッシュ、行動食、飲料水用ペットボトル、ファーストエイドキット、防寒具、身分証を首から提げるタグプレート、アタックザック、スコップ、箒、ゴミ袋、等
 
5)滞在日数以上の食料、飲料水、鍋、カップ、ガスコンロ、携帯ラジオ、電池式携帯電話充電器、予備電池、ゴミ袋、ゴミ分類持ち帰り用大型ジップロック、長期滞在できる大き目のテント、エアーウレタン式等の快適に眠れるマット、冬用寝袋、シュラフカバー、ビニールシート、針金ハンガー、壊れても惜しくない傘、針金、ペンチ、ビニールテープ、ガムテープ、油性マジック、筆記具等、トイレットペーパー、ウエットティッシュ、等など
 
6)今回の津波被災地は青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉と広範囲ですが、北海道から出向くには距離的に近く報道もボランティアも手薄な岩手北部に向かいました。現在八戸港フェリー埠頭は海底に沈んでいる残骸の撤去作業中で使用できず、苫小牧〜八戸間のフェリーは苫小牧〜函館で運行されています。

しかし近く八戸港が復旧すれば、苫小牧港深夜発〜八戸港早朝着のフェリーを使えば北海道からのアクセスが容易になります。今回活動を行って来た、街の中心部が壊滅的被害を受けた岩手県野田村と八戸の距離は国道45号線一本道で約70kmです。
 
7)中心街が壊滅的被害を受けた野田村の12km離れた隣町久慈市では、津波が堤防を越えなかった事もあり、被害は部分的で街は普通に機能しています。野田村のボランティアは久慈市在住の方が多く見られました。その他遠方から来るボランティアも久慈市に宿を取り、車で通ってきていました。野田村の宿泊施設は津波に飲まれ、被害を免れた高台の国民宿舎は避難所になっていて一般の宿泊は出来ません。
 
札幌を出発後
8)青森を基点に近い順番に各県各地のボランティアセンターに直接確認してニーズがある所で活動する予定で、最終的には気仙沼か石巻まで下ると県外ボランティアを大々的に募集しているのでそこに合流します。国道で函館まで走り、フェリーで青森に渡り(二等+自動二輪¥6400)青森市内で飲料水と予備のガソリンを積んで国道4号線で八戸へ向かいました。
 
八戸は港湾部の以外は街の機能を取り戻していました。八戸から国道45号線で久慈市の社会福祉協議会災害ボランティアセンターを訪ねました。久慈市は津波の被害が限定的だった模様で、既に避難所生活をされている方は無く街は通常を取り戻しており、ボランティア活動も一段落して休止中との事でした。隣の野田村は被害が甚大でボランティアセンターがようやく開設されたとの情報を得ました。
 
活動場所が決定
9)次に山一つ越えて久慈市の隣町野田村に向かうと道路の復旧は進んでいて普通に通行出来ますが、街の中心部は壊滅的状態でした。立ち上げて間もない急設えのプレハブのボランティアセンターでは青森県社会福祉協会の方々が交代で業務支援を行っていました。そこで自分の素性と自給して一週間活動する用意がある事を伝えると、ニーズがあるという事であっさり活動先がきまりました。

実はネット等で県外ボランティアを募集しているセンターは少ないのですが、それはおそらく「ボランティア」という活動そのものが持つ性質に起因しているようですが、それについては長くなるのでまたの機会に・・・。
 
10)野田村はその地形上津波が複合増幅する不運が重なり、堤防が破られ街の中心部村役場周辺までも壊滅的な被害を受けました。死者は37名ですが早い段階で行方不明者が全員発見された事で瓦礫撤去の重機が入り、米軍の協力も得て一気に復興に進み始めていました。

私が現地入りした週末には一つの区切りとして村の合同葬儀が行なわれていました。道路上の瓦礫は撤去され村外れに巨大な瓦礫山が出来ています。しかし個人の住宅の瓦礫や泥出し等はそれぞれが人の手で行うしかありません。
 
11)ボランティアのニーズはいくらでもあるという現状ですが、他県からの組織的なボランティアバスツアー(ボラバス)等の受け入れは可能ですがそれ以外の仕組みを構築する事が難しい。兵庫県からのボラバスが来ていましたが、移動に17時間かかったとの話でした。移動距離は1000k以上になるでしょう、

もっと近い所で作業すればいいのでは?と思いますが、そうやって行きやすい所に皆が集中してしまうようです。ニーズよりボランティアの方が多く溢れてしまうといったミスマッチも起きてくる。逆を言うとここは人手が足りないからわざわざ1000k以上走って駆けつけてくれているという事です。
 
12)ここでは表立って個人ボランティアは受け入れていませんが、一緒に作業をしていた人たちは全員個人ボランティアでした。土砂降りで作業が中断した長い昼休みにじっくりと話をする機会がありました。

個人募集していないのに何故ここに来たのか?という話になった時、家族も家も仕事も全てを失った人達を黙って見ている事が出来なかった。と、自分も含めてほぼ全員そこが原動力でした。(4月23日県外からの個人ボランティアの募集が始まったようです)
 
13)恐らく復興までには相当な年数がかかると思われます。地域によって集落によって求められるボランティアのニーズが様々です。救援物資については膨大な物量で村の体育館を山盛りに占拠していました。こちらもニーズと供給や配付配分について大きな声では言えない様々な問題があるようです。

おそらくこれは各被災地に共通する事かと思いますが、たとえ善意であったとしてもニーズに合わない救援物資、あるいはニーズに合っても届ける術の無い物資は受け手の負担になっている現実があります。たとえ額が小さくても直接義援金口座に振り込んだ方が確実に役立ちます。
 
ボランティアの素行
14)誰もが顔見知りという小さくまとまった村社会に県外人がやってくる事は村人にストレスを与える事でもあります。実際泥棒事件も起きているようです。(これは内情を知る者の犯行では?との話もあり)「李下に冠を正さず」を徹底する必要があります。

被災地を見に来る観光客もやってきます。「解体OK」とペイントされた半壊家屋の前で記念写真を撮りに来ます。ボランティアは瓦礫や泥を取り除きにやってくるのもです。被災者の心を傷付けたり不安にさせないように行動言動には常に注意を払います。今回一箇所に留まり連続して活動を行う事で、地元の人に顔を覚えて貰えるメリットは大きなものがありました。
 
15)被災地には至る所に瓦礫が山積し砂埃が舞い、ガラスの欠片、錆び釘、ステップル、木ネジ、針金、金属片、等刺さって怪我をする危険性のあるものが散乱しています。それらは汚泥にまみれておりバイ菌だらけです。皮膚の露出の少ない服装で素手は避けて薄手のグローブを使い、サングラスタイプの防護メガネをかけ、帽子をかぶり、マスクをつかいます。常にファーストエイドは必携です。
 
16)ボランティアは自給自足が原則ですが、既に電気は復旧、上下水道は仮復旧しており、食事が出来る店が営業を再開していました。そこで被災者に代わって利用する事が直接の支援に繋がるはずと日々通い積めました。

また、隣町の公共温泉施設で汗を流す事ができました。これは受け入れてくれた村の人々に余計な気を使わせない為にも有効でした。つまり悲惨なテント生活に耐えながらボランティアをしてくれている。と思われると優しい村人を申し訳ない気持ちにさせてしまいます。
 
実は我々アウトドアを得意とする人間にとってはテント生活は悲惨では無く快適であったりしますが一般の人には理解されにくい。日々温かい食事を食べて温泉にも入っています。テントは寝るだけです。寝袋は北海道の冬用で暖かです。実は遠方より通ってくる方々より楽なんですよ。このように説明すると安心してくれました。

テン場隣のおばちゃんがいつも気にかけてくれていました。もし過酷な避難生活を強いられている地域にボランティアで入る場合にはまた話が変わってくると思います。
 
被災地に入るという事は特殊な環境に身を置いているという自覚を常に持つ事が重要です。ボランティア依頼を受けて指定された場所に向かう以外は被災家屋や被災店舗には絶対近寄らない。

必要のない場所には行かない、好き勝手に出歩かない、道路以外は歩かない立ち入らない。被災地では実際に泥棒事件も起きており、悪い言い方をすればボランティアと泥棒の見分けはつきません。

被災地はナーバスになっています。たとえ悪意がないとしても客観的に怪しい行動ととられてしまえば、その先信頼関係を構築する事は難しいでしょう。
広い駐車スペース 消防署より見える位置に 金庫が放置してあります
実際の災害ボランティア活動
17)ボランティア活動は、全て現地のボランティアセンターの指示に従って行います。ここで活動時間は原則9時から16時までと決められています。

9時にボランティア受付を行い、ニーズ(ボランティアの要請)「例えば3丁目の志村さん宅で泥出しの依頼 3〜4人程度」等によってセンターに集ったボランティアで即席チームを作り、ニーズの作業票と現場の地図を受け取り、

作業道具を持って現場に出かけ、要望者との打ち合わせをして作業を行い、終了時に作業の完了か明日に継続するのか、あるいは新たな要望があるのか?等を聞き、作業票に記入してボランティアセンターに持ち帰り報告を行って解散となります。ボランティアニーズは日々様々です。
 
18)ボランティアセンターから1km程の村営プールの駐車場にテン場をもらえたので歩いて通いました。テン場は街灯も無く真っ暗闇の静寂です。21時には寝袋に包まるので5時には起きてしまいます。

そうしてボランティア活動が始まる9時まで待つ時間がもったいなく、7時から役場前の駐車場の清掃活動を行いました。勝手に単独で作業をする事は良くないのですが、駐車場には至る所にガラスの欠片が散在しており、釘やネジ類も散見します。それらは車のタイヤに刺さってパンクさせるに十分な脅威になっていました。
 
朝の清掃なら問題ないだろうとの判断でスコップと箒を使って危険物を集め始めると、有るは有るは直ぐにスコップ一杯のガラスの欠片やら錆び釘が集りました。すると役場の中からさりげなくこちらの様子を見に人が出てきました。

つまり「駐車場内をうろうろして時折しゃがみ込んで何かをしているよそ者がいる」と認識されてしまったようです。しかしスコップ一杯の収穫物を見て何をしているのか一瞬にして判ったようで戻っていきました。李下に冠を正してしまいました。
 
タイル張りの駐車場 タイルの隙間に釘やガラス片 小一時間の収集量
しかしそれも3日目にもなると、車で出勤してくる職員の方の挨拶のお辞儀の角度が変わってきました。結局一週間びっしり取り続けましたが切がありません。帰る日の朝、フェリーの時間ギリギリまで作業してきましたが取り切れませんでした。被災地にはガラスの欠片や釘ネジ等が散乱しています。車のパンクや怪我をしないように注意が必要です。
 
19)ボランティアのニーズは、瓦礫の撤去、泥出し、荷物の搬送、炊き出しの補助、清掃片付け、という判りやすいものから、変わった所では 「写真の整理」というのがあります。これは瓦礫の撤去作業中に出てきた家族の写真アルバム等が役場に届けられる事があります。

津波に飲まれ泥にまみれたアルバムの中から生かせる写真を取り出して洗浄して乾燥させ展示して持ち主に返す活動です。家族も家も全て失ってしまった被災者にとって家族の写真アルバムは特別な重みがあります。

人生の節目節目の記録、誕生、入学、卒業、結婚、出産等、嬉しかった事、楽しかった事、家族の笑顔が一杯詰まっています。
 
被災された方々が家族の手がかりを求めて役場玄関前の写真展示場所に訪れます。「あった!」の声に振り返ると、「良かった、これ娘です」と展示してあった一枚の写真を大事そうに手に取る女性の姿がありました。

思わずつられて「見つかってよかったですね」と言ってしまいました。しかし次の言葉がみつかりません。本人が存命なら写真を探しにくる必要は無いのかもしれません。喪服姿の女性が「これは父です」と写真を見つけてその場で泣き始めた事がありました。かける言葉ありませんでした。これは切ない作業です。
 
20)瓦礫の撤去と泥出しに行ったお宅で、作業が一段落した所で家主の腰の曲がりかけたおばあちゃんが「どうぞ休んで下さい」と缶ジュースとお菓子の入ったバスケットを持ってきました。ボランティアは無償で食事等の用意も必要ありませんとアナウンスがあるのですが、こういった心使いは受けるのが暗黙のようでチビ缶のコーラを頂きました。

ヘルメットを脱いで、ゴーグルとマスクを外し、蓋を開けて上を向いて一気に飲むと空は眩しい程の青空でした。どんなに目をこらして探しても一点の曇りも無い完全な青空です。

瓦礫の中で埃にまみれて泥の山にスコップを突き立ててあがいていたその上にはこんな青空が広がっていたとは気がつきませんでした。その時村の体育館では犠牲者37人の合同葬儀が執り行なわれていました。生まれて初めてピーカンの青空が残酷な色に見えました。
 
最後に
22)比較的復興が早く進んでいるという場所での活動でしたが、南に下るに従って更に被害が甚大な地域がたくさんあります。現地から引き上げる際に、本当は次の情報を得る為に宮古市かその先まで行ってみるつもりでしたが、おそらく状況は刻一刻と変るでしょうし、

見に行くという行為自体に疑問を感じて取りやめました。もし次にまた被災地に行くチャンスが来たなら、その都度情報を仕入れて必要とされる所に向かって行くだけです。
 
しかしアウトドアでの活動に慣れていて、装備もあり訓練もされていて、無理なく一週間無補給で作業出来る装備も能力もあるとしたら、それは一般のボランティアでは難しい所まで行ってニーズに応えられる可能性をもっています。

しかしここで重要なのは、自分が何か能力があるからそれをしたい、という事では無くひたすらに現場の要求されるニーズに応えるのみ。という姿勢を崩さない事、自分の満足の為に行うものでは無く、自分の達成感を満たす事や、誰かに感謝されたいとかの邪念は被災地に不要です。

派手な活躍より地味な安全を確保する堅実さと周りの空気を読んで合わせていく協調性や謙虚さこそ必要です。
 
宝くじでも当たったら装備を揃え人を雇って訓練し強力なボランティアチームを作って作業をがんがんこなしていくのにな〜などと妄想してしまいますが、現実は甘くありません。次に被災地に手伝いに行く事ができるのは何時になるのか?はたしてもう一度いく事が出来るのか?作業が判って来る程しなければならない部分も判ってきて、作業は全く追いつきません。

そんな中後ろ髪引かれる思いで被災地を後にしました。自分には帰れるベースがあるというしあわせを感じつつ、力を蓄えてチャンスを作って再び手伝いに向かいたい。フェリーが離岸して遠ざかる港を見ながらそんな事を考えていました。
 
帰札して間もなく、旭山公園に上って札幌市内を一望してみました。この自分の生まれ故郷が一日にして壊滅してしまったらどうなるのか、被災地で見てきた瓦礫の荒野を札幌に重ね合わせるも想像すら出来ません。しかしそれが現実となって命を奪われた方、行方不明になった方、命以外の全てを失い一からやり直そうとしている人たちが同じ空の下でがんばっている。

しばらくは暗澹たる気持ちになりますが、震災で命を奪われた方々が幸せで生きている自分に対していつまでも暗く下を向いて欲しいと思うだろうか?被災した方々への支援はそれぞれが出来る事をできるだけする。

そして生きている自分の命は一生懸命使う、仕事も遊びも一生懸命になって人生を楽しむ事が亡くなった方々への最大の供養になる。そう信じて青空に向かって歩いて行こう。北海道の空の下で一日も早い復興を願っています。  
報告書なのか感想文なのか判らない終わり方になってしまいました。厳しい事態に対して理想と現実を突き合わせて折り合いをつけて進んでいく。復興とはそういう感じを受けました。
2011年4月 佐藤真吾 
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