42)バイクに乗って旅に出た2004夏その四
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その一/その二/その三/その四
2004/8/18
ずっと以前から九州の南端に行って見たい場所がありました
公園の屋根付きベンチで野宿の図
1)
 祭りが終わった後、阿波踊り舞台裏のベンチで夜を明かしました。 これから四国を縦断して海を渡って佐賀関を目指します。 
スーパーの惣菜コーナーで売っているカツオのたたきのプラスティックトレーと白米のトレーを並べた図
2)
 昼時、スーパーマーケットに入り、カツオのたたきでご飯をいただきました。
フェリー着岸ゲートをバックにじゃこ天を食べるの図
3)
 三崎港フェリーターミナルで「じゃこ天」を食べつつ船を待ちます。お盆の混雑が激しい乗用車に比べて、バイクは並ぶ必要も無く、のんびりと一番前に並びます。
潮流にもてあそばれるように進む貨物船の図
4)
 明らかに潮の流れが見て取れます。まるで大河の河口を見ているように流れています。貨物船は早い潮流に苦しみながら進んで行きます。速吸瀬戸(はやすいのせと)と呼ばれる所以です。
道端のから揚げ屋さんの店先でひろげられたトレーに入った香ばしいから揚げの図
5)
 佐賀関港に降立ち、旨い魚を求めて町をうろついていると、香ばしい匂いに呼び止められた。
日陰で寛ぐ黒白ぶち猫の図
6)
魚の事は猫に聞け! 
町の食堂の充実の黒板メニューの図
7)
さすが、猫様の言う事に間違いない! 
どんと盛られたあら煮とクロメ汁のA定食の写真
8)
 あら煮とクロメ汁のA定食をいただきます。

 あら煮は反則的旨さ、ご飯何杯あっても足りません。酒の肴としても日本酒、焼酎、何杯でもござれって感じです。ご飯は「もりもり御代わり」するのが正しい作法のようです。唯一欠点は食べるのに時間が掛かかる事、特に兜煮状態の頭部は軟骨系が旨い旨い、骨までじっくりしゃぶります。クロメは、近場で取れる海藻類でいい味してます。
強力な刺身盛り合わせの図
9)
 出ました刺盛り!関アジ、関サバ、ハマチ、タコ、イカ、サザエ、激しい潮流で鍛え抜かれた美味なる魚たちの競演!酒も焼酎も飲れないのが残念です。浴を言えば「亀の手」も食べたかったなぁ
知覧特攻平和会館の記念碑
10)
 「長崎平和記念公園」記念像、「広島平和記念公園」原爆ドーム、「沖縄平和記念公園」ひめゆりの塔、平和の礎、それぞれに訪問し深い感銘を受けてきました。その感銘の中で必ず訪れなければならないと思いつつ実現出来ないでいた場所がありました。

 それが鹿児島県「知覧特攻平和会館」でした。特攻という言葉は子供の頃から知っていた言葉ですが、その実はどういう事なのか、
洋上に浮かぶ開聞岳の図
11)
 太平洋戦争末期、敵に沖縄上陸をされた旧日本軍は、万策尽きてついに捨て身の自爆攻撃を始めた。それは17歳を筆頭に前途ある若者を確実に殺していく行為だった。「爆弾を抱えた戦闘機を敵艦に体当たりさせて攻撃する」という特別攻撃、今冷静に考えるとありえない攻撃だが、既に海軍が全滅状態になり、沖縄に上陸されたこのうえは、神風が吹く事に掛けるしかなかった背景があった。

 大戦末期の日本には、全ての物資が不足しており、まともに戦える戦闘機は少なく、整備する部品も無く不完全な機体に爆弾の重りを付けられ、粗悪なガソリンを積み、十分な訓練を受ける事の出来なかった未熟な若者に操縦させて、スロットル全開に出来ない機体を騙し騙し飛ばして適地に向かっても、敵艦突入前にほぼ撃墜されてしまう事は軍上層部には判っていたはずだった、

 あまつさえ速度の遅い訓練機に爆弾背負わせて特攻に向かわすなど正気の沙汰とは思えない、それは敵に日本軍の覚悟を見せ付ける作戦だったのか、あるいは本土決戦に備える時間稼ぎだったのか、想像の域を出ません。

 それでも、若者は「一撃轟沈」のチャンスを与えられた事を名誉とし、操縦桿を握りしめ命を散らしていったのです。
眼下に貨物船を見下ろすプロペラ機の翼の図
12)
 祖国の為に命を捧げる事を名誉とし、明るく命を散らせていった若者達が出撃前夜にしたためた「絶筆」を読むと涙が止まらない。死して潔しとする書き出しの裏にににじみ出る愛する家族への切ない思いは今も生きたかった思いを鮮烈に放っています。

 平和な時代に生まれ、自由を満喫出来る現状を今生の幸せと感じずにはいられません。まだたったの60年前の出来事です。ここだけで1000人以上の命が無念の死を迎え海に散りました。戦争を忘れてはいけない、美化してはいけない、ありのままの現実をしっかり記憶に留めて置く事が大切だと思いました。

 *プロペラの写真は別の機会に、鹿児島から屋久島に向かう機上から眼下の大型船舶を写した写真です。
開聞岳周辺より望む南方に沈む夕日の写真
13)
 知覧で半日以上過ごし閉館時間に出されて、重く暗い気分で開聞岳に行きました。周辺をうろつき遊歩道を歩き小高い丘から海に沈む夕日を見送りました。

 特攻機は離陸すると機体を左右に振って「さよなら」の合図をして開聞岳上空を通り南方に飛び去って行ったそうです。

 実際の特攻機は250kg爆弾を一発積み、悪天や機体故障等で作戦中止の場合があるので往復できる燃料を積み、護衛機と共に敵陣まで飛行し、目標艦船より1000m手前より急降下を開始し必死必沈の一念で弾幕をかいくぐり時速280qで敵艦に突入していったそうです。
開聞の町のラーメン屋の図
14)
 すっかり暗くなって昼飯も食べてなかった事に気が付き、開聞町の小さな食堂に入りました。閉店間際に入ってきた一見の客にたいして、食堂のおばちゃんは優しかった。
旨そうなもつ鍋ちゃんぽんの図
15)
 「もつ鍋ちゃんぽん」 食べたいものがお腹一杯食べられる事に感謝せずにはいられませんでした。

 店を出て台風に追われるようにして、そのまま宮崎まで夜通し走り、宮崎から大阪と、舞鶴から小樽とフェリー乗り継いで、一気に北海道に帰りました。両航路とも最新の高速フェリーは台風の追従を見事に振り切ってくれました。
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