2)サポートスタッフについて
 一人で全工程6000Km走り通すランナーを走る事だけに専念してもらう為に、 サポートスタッフがしなければならない仕事は、およそ次の通りです。

 1)ランナーの要求に即応した給水、給食、着替え、医薬品、休息場所、それらの提供

 2)到着予定地点までの時間と距離を把握した上での実際の道順案内、

 3)走り終えた後、毎日の体の回復を即すためのスポーツマッサージ

 4)日々、宿でのランナーの荷物の運搬や洗濯などの細かな雑用

 5)到着予定時刻と実走行時間を付き合わせた事前のスケジュール調整

 6)実際の走行を記録してのリアルタイムでの情報発信と記録集用のデータ収集

 7)地域ごとの主催者との事前打ち合わせと実際のスケジュール調整と当日の連携

 直接的なものから間接的な仕事までサポートスタッフの仕事内容です。

 実際のマラソンでは
 1)については、市街地等道路状況関わらず正確に1500mおきに休憩をとる。
 2)距離的なものと、県庁は町の真中に有る為、複雑になってしまったルートを間違いなく案内する事、工事中や、歩行者通行止めなど、突発的な障害に現場の判断で対処する事、県庁突入時間に分単位で正確に突入させる事、手ぶらのランナーと常に連絡を取れる状態を確保しておく事、等、
 3)毎日食事を終えてから小1時間程度のマッサージをほどこす。
 4)歓迎式典や集会でのセレモニーでの雑用、伴走ランナーの受け付け、応援グッズの販売、氷水の確保、アイシング用氷の即時調達、特定のスポーツドリンクの調達、 特定の医薬品の調達、濡れた河童の乾燥から、食べたお菓子の紙くずにいたる多種様々な雑用。
 5)直前にならないとなかなか決定しない事や、直前になって変更してしまった事などの調整のために夜遅くまで打ち合わせをすることもありました。
 6)日々の走行日誌の記録、県庁訪問、マスコミの取材、伴走ランナー、応援、声援、歓迎会、いただきもの、とどこで誰と会ったのか、患者さんのお宅の訪問、など、日々の出来事を文字とフィルムとメモリーカードに記録して、郵送で発信する。
 7)当初より細かな変更を繰り返したためにおこった事と、そもそもの連絡不行き届きに起因するものまで、様々なでこぼこを直す作業を主に電話でしていました。
 当初4人でそれぞれ役割を分担して一人のランナーを支える予定でした。
  1)サポートカーに乗り、マラソンの総指揮をする人、
  2)サポートカーに乗り、通信、記録、情報発信をする人
  3)サポートカーに乗り、マッサージを施す、トレーナーをする人
  4)伴走バイクに乗り、ランナーの誘導、給水、通信をする人

 それにランナーを含む5人一組でチームを作り、(本体Aチーム)と(本体Bチーム)の
2チーム作る予定でしたが状況が許さず、
 予備要員は無しの1チームで走り通す事になり、更に、マッサージトレーナーの参加が不能になり、通信記録、情報発信係りの参加も不能になりました。

 最終リハーサルを終えた段階で、指揮の難病連事務局長と、私の二人だけでサポートしていかなければならない状況になっていました。

 ついにスタート本番2週間前になって、3回のリハーサルの状況から、二人だけで全てをサポートしていくのは、非常に困難で計画の存亡にかかわるという事になり、 急遽人材確保令が出た時に、私のバイク仲間の一人に白羽の矢が立ったのでした。

 阿部 重宣(あべしげのり)君の登場です。最後のリハーサルの時は、偶然にも彼の住む町がスタート地点となっていてたということもあり、マラソンについては既にその内容を直接話していたという事もあって、事情を話すと、かれは3日で快諾してくれて、3人でサポートしていく事になりました。

 彼はプロ登録のカメラマンで、記録集用の撮影をメインに、サポートカーの運転と、細かな雑用全般をしていくことになります。 スタート前日の宿で、初顔合わせでぶっつけ本番でそのままスタートという状態でした。 誰一人欠けられない長旅の始まりでした。

 旅を振り返ると、情報の記録発信を専門にする係りか、マッサージを専門にしてくれる係りのどちらかがいてくれたなら、インターネットがもっと有効に使えていたと思います。
 日中、暗くなるまで神経と体力を消耗しきって、夜中にマッサージとデーター整理と情報通信、機器の修理メンテナンスにも時間をとられる事が多く、思いのほか作業が出来ませんでした。 (苦しい言い訳です) 

 このような外に向っての活動にはインターネットを使ったリアルタイムの情報発信が不可欠であるという結論です。  しかも明らかに専属に一人必要でした。  重要連絡事項はメールでやり取りして、プリントアウトしておく案を採用する事が望ましく、 直前にタイムスケジュールの変更があった場合の連絡手段なども電話では不十分でした。

 地元のサポートスタッフ無しでもやれる位の体制で行かなければ、予定が少しでも狂うと非常な窮地を招くことになるという事。  ボランティアを過度にあてにしてはならない。

 理想と現実の中で進んだマラソンですが、最高の欲を言えば、  「宴会要員」がいるともっと交流が深まったのではないでしょうか?(私志願します。)(笑)

実際のパンフレットからスタッフ紹介を抜粋

「ランナー」
澤本 和雄さん 1946年北海道富良野市生まれ、
70年〜92年岩橋印刷(株)にグラフィックデザイナーとして勤務、92年(有)澤本デザイン事務所設立。北海道難病連のポスターやパンフレットの製作を手がけ20年になる。
 マラソンは30歳から走り始め、現在まで51回のマラソン大会に出場、全て完走。92年サロマ湖100Kmウルトラマラソンを完走した翌日から7日間かけて札幌の自宅まで490Km完走。96年自宅から帯広・釧路方面へ4日間230Kmランニング。
 この頃からザックを背負って野宿しながらのランニング一人旅を始める。97年自宅から日本海沿岸を稚内まで5日間320Kmランニング。
 98年自宅から北海道難病連の全道集会会場の登別を目指し「難病の患者さんに幾度となく元気つけられた。今度は私が「頑張って」と励ましたい」と思い、2日間130Km激励ランで駆け付けた。「四季を通して自然の中をゆっくり気ままに走るのが好き」。
 
 
「デイレクター・サポートスタッフ」
伊藤 たておさん 1945年室蘭市生まれ。
 ほとんど札幌在住。4歳で重症筋無力症を発病。様々な病気も経験。72年、全国筋無力症友の会に入会。
 北海道支部設立に参加。73年北海道難病団体連絡協議会設立に参加(事務局・代表者)82年12月財団法人北海道難病連と改組。専務理事・事務局長。86年、日本患者・家族団体協議会(JPC)設立に参加。
 88年より代表幹事。スポーツ暦まったくなし。絵かきさんを目指し挫折。アウトドア大好き。52歳でオートバイの免許をとった。心構えは、飲みすぎるな!食べすぎるな!どんなことがあっても走るな!
 
 
「サポートスタッフ」
阿部 重宣(しげのり)1969年東京生まれ。
 フリーカメラマン。90〜91年野崎印刷紙業(株)に撮影係として勤務。その後、3年間富田 皋生(こうせい)氏に師事。独立後、日本一周バイクの旅に東京より出発するが、
 北海道は枝幸町にあるライダーハウスえさしYOUに宿泊中、オフロードバイクで山を走る楽しさにひかれオープンエンデューロレースに参戦するようになり、ライダーハウススタッフとして活動しながら枝幸町に住むようになる。
 現在は海に生きる人を中心に港や防波堤を撮影中。えさしYOUで知り合った佐藤真吾氏より今回の件を聞き、撮影兼ドライバーとしてサポートを決意。30歳独身。趣味は、山遊び、川遊び、海遊び、たきび。
 
 
「サポートスタッフ」
佐藤 真吾1965年札幌生まれ。
 87〜98年ICI石井スポーツ勤務。野良遊びをこよなく愛し、得意分野は、オートバイ、マウンテンバイク、テレマークスキー、クロスカントリースキー、85年から一輪車センチュリーマラソン(162Km10時間完走)他、湧別原野85Kmスキーマラソンなどに出場を重ねるも、普通のマラソン暦は無し。
 オートバイとマウンテンバイクでそれぞれ日本縦断野宿ツーリングの経験あり。特技は修理、改造(二級整備士)、不得意分野は、一般常識。
 事故に遭い多くの人に助けられた経験から、逆に人を支援する立場になってみたいなどともくろむ。酒と蕎麦と温泉が大好き。オートバイでランナーのサポートとトレーナーを担当。
 
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