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昨年ここで一緒に年を越したバイク仲間が大怪我を負っていた。それはしばらく仲間内にも知られていなかった。 状態は軽くなく復活の願いを胸に皆で雑煮を食べた。 「バイクにはリスクがある」それは判っているつもりでも実際には全く判って無くて、仲間の現実を目の当たりにすると言葉を失う事からもそれは明白で、実は「考えても始まらない」と判っているだけである可能性が高い 真剣にバイクに取り組めば一つ一つのリスクを分析して合計していくと、止めた方がいいという結論になる事は薄々気がついているはずだ。それを考えないようにしている状態を「わかっている」と言い換えて前を向いて走っている。 それはなぜか? 身の危険を感じ、対応しようと考える必然性が思考回路を活性化させる栄養のような役割を果たしていると思う。 深刻なリスクに直面する可能性が有り、自らは防げない、防ぐ事が困難な未知な危険に対する恐怖から、先を読む能力や瞬間的な判断力なり思考の瞬発力が鍛えられる。 自然界の動物達は危険に直面した際に、翼で飛んで逃げる、角で応戦する、におい物質で撃退する、等々様々な生きる為の危機回避の方策が与えられている。 人間に与えられた危機回避の方策は頭で考え出す事だ。頭も身体も鍛えれば伸びるし逆もある。 無謀な危険に身を晒す事は正常な思考が働いているとは考えにくい。しかし管理された危険に身を置く事で得られる緊張感、そこで冷静に考え判断していく事が頭の実戦トレーニングになる 現代社会に蔓延している便利、快適、安心、安全、これは一見良いことのように思えるも、実は自ら考え危機を回避する能力を衰退させる重大な副作用をもっていると思う。それを感じ取った脳が管理された危険を求める根底にあると見ている。 しかし、重症を負った仲間を前にそんな理屈は何の役にも立たない。何の解決にもならない。どうする事もできない。かける言葉すらみつからない。 |
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