ミスターバイク誌1999年12月号掲載記事

 がんばれ難病患者日本一周激励マラソン現在走行中!!(第三回)

 難病患者への支援を訴えるために日本全国の知事に要望書を渡し、最後は厚生省を訪ねる日本一周マラソン。マラソンランナー澤本和雄さんを、アフリカツインで、サポートする佐藤氏。7月に北海道を出発し、今月は遂に沖縄まで走破!
 http://www.tokeidai.co.jp/h-nannrennでも詳しい活動がわかるよ。(募金や激励メッセージも募集中。問=JPC事務局TEL03-3985-7591/北海道難病連TEL011-512-3233

 9月22日福知山市より村岡町までR9号64Km
朝から雨のスタートになる。日中は、災害レベルの、あたりが暗くなるほどの豪雨に見舞われる中、参加してくれた伴走者、その強行する姿を、収めようと正面からカメラを向けると、彼らは、見事に陽気におどけて見せる、全然シビアな写真にならない。

 今日の伴走は消防隊員。厳しい状態の時にこそ、ギャグをかませるその余裕こそが、辛い訓練に耐え抜いた、人命救助にたずさわる者の証と見た。

 9月23日村岡町から鳥取市までR9号43Km
鳥取砂丘にくると、どうしても砂遊びしたくなるのは、オフロードバイク乗りの性、はまって大汗かいてる暇はないので、給水時間の合間を見て、バイクにちょろっと砂の感触を確かめさせる。おまえは本来、こういう所を駆け抜けるために生み出されているんだよ。「アフリカツイン」
 9月24日鳥取市から北条町までR9号54Km
今回初の台風の洗礼を受ける。何もない海岸線を走るため、風の直撃を受けてぶっ飛ばされそうになりながら、それでもランナーは進む。突風が来るとランナーは止まる、後ろを走るバイクも止まる、普通に走っていれば、ハンドルでバランスの取りようがあっても、止まっていては、二本の足で踏ん張って耐えるしかない。

 何度も何度も、風に寄り切られそうになりながらも、どうにか土が付かずに、無事に千秋楽を迎える。

 9月26日安来市から松江市までR54号21Km
午前中で工程が終了したので、宿に荷物と、たまっている作業を、置き去りにして午後からは、観光客に変身。松江堀川遊覧船に乗るときは、周りをよく観察するんだ。短めのスカートをはいた、綺麗なおねーさんの少しまえのポジションを、確保するべし。

 などと、楽しいひとときは、あっという間に過ぎ去り、宿に帰ると、「たまっている作業」さんが冷酷な液晶画面の顔をして出迎えてくれました。現実に引き戻されて、明け方まで、寝かせてもらえませんでした。
 9月29日三次市から広島市までR54号60Km
道端に栗が落ちていた。そいつを拾って、アルミホイルにくるんで、エンジンと、マフラーの間に挟んで走る、しばらくして、止まった時に香ばしい匂いがしてきたら、出来上がり、落ち栗のマフラー焼き。
 9月30日広島市から岩国市までR54号53Km
広島の平和記念公園で、献花をする、数え切れないほどの、たくさんの色鮮やかな折り鶴が、訪れる人を皆、無口にさせる。
 10月3日久々の休養日、この町が小京都と言われる所以を、探しに行く。
自動車が、入り込めない場所だから、風情も情緒も残されている。着物でのんびり歩いて、安心して暮らせる町、それが小京都との所以とみた。
 10月4日山口市から下関市までR9号56Km
今朝は、冷え込んだ。エンジンは、もうチョークなしでは目覚めない。昨日で夏は終わって、今日からはっきりと秋になった。
 10月5日下関市から遠賀町までR9号56Km
関門トンネルは、工事中、ランナーは、人道トンネルを通る、ここは、原付までだったら、押して通れる。バイクは大橋を、ランナーは、海底を、それぞれ通って九州に上陸。ここの海峡、でかい船の往来が非常に激しい。
 10月6日遠賀町から福岡市を経由して大宰府市までR2号57Km
史跡の案内表示板が、ハングル文字で、併記されている。ここからは、北海道より朝鮮半島のほうが、はるかに近い。
 10月9日武雄市から大村市までR34号43Km
道端にいい色をした柿が落ちていた、秋の日の絵になる風景を撮ろうと、バイクを路肩に停めて、そこにしゃがみ込んで、地面すれすれのローアングルで、写真を撮っていた。ふと気づくと後ろに一台のバイクが止まっていた、

 「パンクでもしてんのかと思った。」と彼は言う、ひとこと、ふたこと、話して、またなにごともなかったように走り去っていった。

 となりのマンションで人が死んでいても気づかないような、そんな閉ざされたコンクリートのような冷たい社会にあって、困っている人にすっと手を差し伸べられる、バイク乗りは、アクセルも、心も、いつも開いている。人の痛みや辛さを、感じとれる、バイク乗りとはそういう人種でありたい。走り去る後ろ姿が、かっこよく見えるのは、気のせいか?

 10月10日大村市から長崎市までR34号40Km
長崎の平和記念公園で、献花をする。修学旅行生がたくさん来ている、自分もかつては、そうしてここを、訪れているはずなんだけど、当時は、(いまだに?)馬鹿がきだったから、たいして強い印象がなかった。

 今こうしてじっくり見ると、この記念像は、一点の乱れもない水面の上に浮かんでいる。鏡のような水面に、像と青空が映っている、火は戦争の象徴で、水は平和の象徴、ということなのか、今回の旅では、資料館などを、見ている余裕などないので、素通りに近いが、平和に対する強い意思表示が、印象に残った。

 10月11日長崎の休養日、
やるべき作業をこなして、暗くなってからから町に出る。本場長崎ちゃんぽんと、トルコライスなるものを食べて、曲がりくねった坂道を登って夜景を撮りに展望台に行く、ちょうど帰るころになって冷たい雨が降り出した。

 逆バンク気味のきつい下り鋭角カーブ、一台の乗用車が、一時停止を、無視して突っ込んできた、衝突を避けるために、コースアウト、電柱を避けて、ごみステーションを、なぎたおして、コンクリートの側壁のかどに頭から激突して止まった。

 車は何事もなかったように走り去った。しばらくノックダウンされたボクサーみたいに動けずに、地面に寝転がってると、カウントダウンをしに、近所の住人が、わらわら出てきた、救急車を、呼ばれそうになって、それを避けるために余裕が在るふりをして、無理やり立って、震える右腕を押さえながら、写真を撮る。

 口の中は、ごみステーションの土と血の混ざった、いやーな味がしてる。2度手術を受けている右肩と、頚椎にダメージを受けてしまう。バイクと身体に応急処置をして、宿にたどり着いて、死んだように眠る。

 10月12日長崎市から長洲町までR57号55Km
今日の朝は辛かった。今日一日一杯寝ていられる券が、あったなら、5万円までなら出して買う。などと、馬鹿言ってる余裕は無かった、首から右腕にかけて、筋が固まってきていた。  ここで二つの選択肢が在る、

 其の一これから本体が、沖縄に行って帰ってくるまでの間、病院に入って集中的に安静を保って回復させる。其の二、強い薬を使って痛みや、こわばりを、押さえてこのままサポートの旅を、続ける。それを決めるには骨折の有無の確認が必要だった。

 夜中に宿を抜け出して、熊本市内の病院に向かう、救急指定病院は、繁盛していた。傷めた肩をさらに痛い方向に力強く引っ張って、レントゲンを撮るという荒業を使って調べた結果、とりあえず目立つ骨折は、無いでしょう、との結論。

 すべて終わって、病院を出たのが、3時ちかかった。宿にたどり着くまでの40分間は、睡魔との戦いだった。傷ついたほほの内側を、再び噛み千切って何とかしのぐ。

 10月13日長洲町から熊本経由で、宇土市までR3号56Km
ここらへんはこのあいだの台風18号の直撃で大きな被害が、出たところ。あちらこちらで、看板が倒れていて、屋根かわらが、落ちたりずれたりしている。
 10月14日宇土市から芦北町でR3号62Km
今日たまたま給水ポイントになった、大忙し状態の、屋根かわら屋さんの屋根は壊れたままになっていた、まず、御客さんが最優先とのこと、このへんは特に被害が大きく、電柱までもが倒れたままになっていた。

 10月16日宮之城町内から鹿児島市までR3号60Km
薩摩街道は、非常に険しい道、遠い昔から、崩壊と修復を、繰り返してきた。桜島が、見えるビューポイントのあたりでは、勾配が10パーセントを超えている。

 鹿児島は、ずいぶんとバイクが、活躍している印象を持ったその夜、バリバリと、族もずいぶん活躍してた。

 10月17日鹿児島市から空港までR225号37Km
桜島を見ながら海沿いを走る、遠くに噴煙を上げているその姿を、実際に見ると、自然に不変なものなど何もないと、あらためて訓えられる。
 10月18日鹿児島空港から、空路沖縄に渡る
高校の修学旅行以来、実に、17年ぶりで飛行機に乗る。こいつは、20秒で、時速200kmまで加速する。挑んでみるか?ZZ・怪鳥・隼!14年ぶりの沖縄は、やはりオリオンだった。
 10月19日那覇市から南の戦跡公園経由那覇市まで、R58号37Km
姫ゆりの塔に行く。ここには、戦争によって命が崩れていく様が、悲惨に、凄惨に、克明に記されている。壁一面に掛けられた、犠牲となった、たくさんのあどけない少女たちの写真は、とても直視出来なかった。彼女たちが、直面した残酷な運命に比べれば、自分のそれは、怪我のうちに入らない。こんなことぐらいでピーピー言ってらんないぜ!
 10月20日那覇市から鹿児島まで空路移動して、都城市までR10号37Km
沖縄から鹿児島までひとっとび。鹿児島では留守のあいだに西日本ホンダのメカの方々がわざわざ熊本から出向いてくれて。壊れたアフリカツインを、直しておいてくれました。通信機材が、ごちゃごちゃのハンドル周りが、よけいな苦労をかけたと思います、ありがとうございました。

平成11年12月10日(モーターマガジン社)発行ミスターバイク誌12月号151ページ掲載

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