がんばれ難病患者日本一周激励マラソン10周年記念 完全完走 笹谷峠越え
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作戦としては・・・

1)台風でフェリーが止まる前に海を渡る。

2)安全な場所でじっと暴風をやり過ごす。

3)台風の停滞が長引いた時は、高速道路をぶっ飛ばして間に合わせる。

今回は通常野宿旅の装備に加えて、伴走サポート用にサイドトランクを付けて、澤本さんをバイクに乗せるためのヘルメットと防寒装備を積み込んで出発しました。
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1)
 深夜0時00分苫小牧発、翌7時30分八戸港到着便に乗船します。バイクは一番最初の乗船なので列の先頭で指示を待ちます。

 この後は全便欠航が決まっているので、船倉は駆け込みの物流トラックで埋め尽くされて超寿司積め状態でした。台風に向かって行くだけに普段より入念な車両の固定に時間がかかり、少し遅れて出航しました。
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2)
 フェリーは大波小波に翻弄されながら進んでいきました。消灯された薄暗い船内はぐるぐる回るように揺れています。時折何か大きな物にぶつかったような衝撃的な揺れが起こります。

 それはバイクが倒れてしまうのに十分な強く鋭い揺れです。船員さんがバイクの固定を入念に行っていた理由がわかりました。

 朝になり展望デッキのカーテンを開けると、窓の外は既に横殴りの雨が吹き荒ぶ台風の様相です。フェリーはやや遅れて八戸港に着岸しました。バイクは一番最初に乗船して一番最後に下船します。

 固定を解かれた物流トラックが急いで走り去り、船倉が空になった所でバイクの下船です。完全防備でフェリーを降りたら高速道路に乗って仙台に向かいます。本格的な暴風圏に入る前に安全な場所で台風をやり過ごす目論見です。 
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3)
 あらかじめ目星をつけておいた設備の充実しているサービスエリアに逃げ込みました。それは24時間営業の軽食コーナー有り、売店有り、レストラン有り、ガソリンスタンド有り、おまけに焼たてのパン屋さんまで有るという最高の避難小屋です。

 無料サービスのお茶を飲みつつ休憩室の大画面テレビに映し出される台風関連のニュースを見たり、通行止めの交通情報をチェックしたり、外に出て雲の動きを見たりしつつ、ここぞとばかりに装備に加えておいた「難解な本」を存分に読み耽りました。

 夕方札幌駅に電話して確認した所、澤本さんが乗る予定だった16日の夕方札幌駅発上野駅着の夜行寝台特急「北斗星」は運休する事がわかりました。・・・という事は明日の朝5時に仙台駅に着くはずの澤本さんは来ない事が確定しました。

 これで明日朝5時に仙台駅に迎えに行くパターンは無くなりました。そしてこのまま現場に来る事が出来ずに計画が流れてしまう可能性が強くなりました。

 その晩、札幌では今回のマラソンメンバープラスαー達が、休みを取って準備していたものの、突然中止になってしまったので、代わりに飲み会をする事になっていました。

 自分も参加する予定でしたが、直前になって心苦しいのですが理由を告げずにキャンセルの電話をいれました。

 宴会の盛り上がっている最中に再び電話を入れて参加メンバーと話をしました。その場にいられない事が寂しく思うのと、その理由が告げられない事が苦しい辛い電話でした。

 翌朝台風は速度を上げて太平洋に抜けていきました。気象情報と上空の雲の動きから暴風をやり過ごした事を確認してから行動開始です。現場に行っても空振りになる可能性が高いですが、予定通り笹谷峠の開通を確認して現地で澤本さんの到着を待つ事にします。

 まずは日程通りなら今日訪問するはずだった宮城県庁に向かいました。朝の時点で東北道の通行止めは解除されていますが、時間に余裕が出来たので町を結ぶ一般道を繋いで目的地に向かいます。

 結局レストランで2回、軽食コーナーで2回ご飯を食べて、産直販売の野菜をおやつにして、閉店間際の半額になった焼きたてパンも買い込んでしまい、無料のお茶は何杯飲んだ事か?食べ過ぎ飲み過ぎの台風一過でした。
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4)
 計画通りなら今日(10月16日)皆で訪問する予定だった宮城県庁です。10年前の記憶を辿りながら周囲を探索してみました。パトカーとハーレー軍団の伴走で盛大に県庁に突入した事が思い出されます。
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5)
 笹谷峠宮城県側の入り口、当事ここで高速道路から一般道に出てマラソンを再会しました。通行止めのゲートが開いている事にまずは一安心、これから実際通行して峠の偵察を開始します。
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6)
 ほどなくして現れる宮城県側の水場、この峠は昔からの交易の要所であったようです。旧道の遊歩道が峠を直登ルートで横断しています。
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7)
 峠の頂上には立派な避難小屋がありました。ほかに公衆トイレ併設の広い駐車場と案内板が設置されていました。ここから分水嶺を歩く縦走路が整備されているようです。周囲はハイキングの適地になっていて、何本もコースが交錯して整備されているようでした。
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8)
 山形県側にも水場がありました。山で水は貴重なもの、いったいどれほどの峠越えの人々の喉を潤してきた歴史があるのか?
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9)
 山形県側の入り口、大型車が入らないように、道を狭めてゲートが作ってあります。それはカーブがきつくて曲がり切れない場所があるためです。今回の台風の影響は少なかったようで途中に崩れているような所も無く、路面状態も良好で危険箇所もありませんでした。通行になんら支障は無い事を確認して偵察終了です。
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10)
 訪問予定だった山形県庁。笹谷峠を下った市内入り口にあります。マラソン当事は湖畔の宿を出発して釜房湖のほとりを朝日を浴びながら走って県庁入りした事が思い出されます。

 笹谷峠の確認が完了して山形市内より札幌の伊藤さんに電話をしました。実は一昨夜のフェリーに乗って海を渡っている事、先ほど笹谷峠を通行できる事を確認して山形市にいる事を白状しました。

 澤本さんの動向を聞くと、運休の北斗星の代わりに、朝一番の特急で青函トンネルで海を渡り青森へ、青森から新幹線で盛岡まで、盛岡から高速バスで、ちょうど山形市内に着いた所という絶妙なタイミングでした。
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11)
 早速連絡をとって山形市内で合流しました。適当に野宿しようと思っていましたが、澤本さんが予約していた宿に急遽エキストラベットを入れてもらって同宿する事にしました。

 宿で荷物を解いてから晩御飯を食べに繁華街を探索しました。よさげな蕎麦屋に入り、へギ蕎麦を食べました。澤本さんに地酒を勧められましたが、禁酒している人を目の前に一人で飲むのも気が引けて発注しませんでした。

 早めに切り上げて宿に戻って明日の打ち合わせをしました。

 「計画は中止だけど、澤本さんは一人で行って走るようだ」という内容のFAXを各県で協力してくださる方々に流しているので、最終アナウンスをした時間で走ってもらいたいという伊藤さんのタイムスケジュールを確認すると、朝はゆっくりスタートになりそうです。

 マラソン当事は、宿の晩御飯に間に合わない遅い時間に到着して、朝ごはんが用意出来ない早すぎる時間に出発する。そんな事を日々繰り返していました。

 夜に明日の出発時刻と県庁到着予定時刻の確認、伴走者の待ち合わせ確認など事務的にミーティングを行い、ゆっくり話をするような隙間はありませんでした。

 そんな事を懐かしむように一歩一歩ゆっくりと話をしました。

 小さな丸テーブルの上には記憶の断片が溢れ、二人はそれを繋ぎ合わせるように日本一周の旅をしました。同じ光景を見て、同じ風に吹かれ、同じ雨に打たれて日本一周してきたものだった。

 そんな当たり前の事に今、気が付いた。128日間6400km走った後に10年の歳月経て、今気がつくとはどういう事か?そんなペースじゃ何百年あったって人生は足りはしない。

 気が付くと既に夜半を周っていた。我に返りあわてて消灯。
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12)
 翌朝宿の小さなテーブルを囲んでコンビニ弁当の朝食を済ませると、台風一過の澄んだ空気を浴びて笹谷峠に向かいます。 
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13)
 10年前の1999年8月17日災害通行止めにより、並走する高速道路に迂回を余儀なくされた場所に到着しました。当事通行止めを告げる看板の前で同じ様な写真を撮ったものです。
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14)
 当事と変わらない準備体操をする澤本さん。現在も走れる身体を維持し続けています。

 今回は、当事と違うバイクが伴走します。当初はホンダさんから頂いた伴走車両1999年7月初登録「ホンダアフリカツイン750」を出動させるつもりでいましたが、車検を通すのが間に合いませんでした。大切に保管しているバイクですが、10年の歳月はバイクにとっては長いようです。

 現在主力にしている2002年式のこの黒いバイクは既に15万キロを超える距離で自分の身体を守ってきてくれた実績があり、度重なる転倒にもへこたれない信頼関係が出来ている大切な相棒です。マラソン当事にアフリカツインで使っていたゼッケンを着けてラストランの伴走をしてもらいます。

 実際の激励マラソンでは「アフリカツイン」以外では勤まらなかったであろう過酷な伴走でしたが、今日のコンディションと距離ならば、空冷エンジンのこのバイクでも問題なく峠越えをこなせるはずです。
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15)
 前日伊藤さんと打ち合わせをしていた最終アナウンス時刻まで待って走り始めました。当事出発時間連絡の行き違いから沢山の人々を置き去りにしてしまった苦い思い出があります。

 遅くに宿に着いて、夜のミーティングで事情が変わって翌朝の出発時刻が早まったとしても、それを伴走ランナー1人1人に伝える術はありません。今なら携帯電話で見られるWEBサイトを使えば一斉に情報を伝える事など雑作もないことです。
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16)
 順調に走っていた澤本さんが急にしゃがみ込んだと思ったら・・・道端のどんぐりを見つけて拾っていました(笑) 当事と何一つ変わっていないその行動が可笑しくもあり、嬉しくもあります。

 そうして収穫物は次々とバイクのトランクに格納されていきました。それは最終的にスケッチされて一枚の絵として残る事になります。
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17)
 こんどはマムシ草を見つけました。嬉しそうに草むらを覗き込む澤本さん。良く見ると茎の模様がマムシそっくりです。
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18)
高度を上げるうち森を抜けて視界が開けてきました。
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19)
 笹谷峠の頂上です。山形県側の風景を写真に収める澤本さん。1人で走るつもりで急遽三脚を買いに行ってリュックに背負って走る気でいたそうです。

 アナログ人間の澤本さんが、デジタルカメラを持っている事自体驚きですが、それは10年前のマラソン当事に使われていた機種と同じ世代の旧式の製品です。

 当事のデジカメの主要記憶媒体だった「スマートメディア」は現在では手に入らない事が目下の悩みとか・・・
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20)
宮城県側の到着地点まで走り切ってマラソンを終えました。
澤本さんを乗せて来た道を引き返し笹谷峠を越えていきます。
 峠の登りでは、台風一過の青空を喜び、周囲の景色を眺め、道端の草花を愛で、時折会話をしながら今日に辿り着いた事を喜び、一歩一歩味わうように歩みを進めていました。

 あと少しで峠を越える所まで登って、頂上で地元の患者会の方とお会い出来るかもしれないとの淡い期待があり、先行して様子を見に行きましたがそれはかないませんでした。程なくして伴走に戻った自分の表情から一瞬でわかったようです。そうして二人きりで峠の頂上に到着し県境を越えました。

 頂上で周囲の景色を写真に収めたりして、給水して一休みしたら、宮城県側に下り始めました。進むにつれ僕らは霧雨に包まれ、しだいに無口になりました。それは寒さや霧雨に当たって気分が沈んでいった訳ではなく、もう少しで終わってしまうマラソンのゴールが見えて、湧き上がる10年越しの思いに言葉を失っているように感じました。

 「あと残り1kmです。」・・・当時と同じようにGPSに入力した正確なルート情報を伝えます。峠の迂回路の高速道路が見えてきました。

 高速に乗って迂回して車から降りて走り始めた場所、=終了点に着いて写真を撮りました。

 これで10年越しの日本一周一筆書きが繋がりました。

 走り終わるのを待っていたかのように冷たい雨が勢いを増し、余韻を楽しむ暇も無く雨に追われるように出発し、笹谷峠の上で見晴らしのいい場所で昼ごはんを食べようと持参した弁当をかかえたまま山形市内に下りました。

 峠を下ると山形市内は青空が覗いていました。峠を下り切った先にある山形県庁に向かい中庭でコンビニ弁当を食べました。そこは暖かな日差しが心地よく、垣根に並んで座って寒さでこわばった身体をほぐしながら話をしました。

 当時はしなかった、あるいは出来なかった、しごくあたりまえな事を聞いてみたり、話してみたり、・・・気が付くと10年もの遠回りをして今一番近い話をしていました。そんな自分達が可笑しくて何度も笑い合いました。

 澤本さんは汽車の切符の都合でもう一泊同じ宿に泊まります。昨夜は駅前で落ち合って一緒に蕎麦屋にいって晩飯を食べました。酒を勧められましたが、マラソン当事と同じく澤本さんは飲まないので自分も飲みませんでした。

 でも今夜は祝杯をあげるといいます。言葉の節々から飲み交わしたいという気持ちが滲み出ています。自分もまったくもって同じです10年分の話がしたいです。

 ここに4人全員いたならどんなに良かったか、どれだけ美味い酒が飲めただろう?

 葛藤の末、札幌にいる伊藤さんとのりべーを蚊帳の外に置いて祝杯をあげる事は出来ませんでした。ごめんなさい澤本さんを宿まで送って実はあても無く走り出しました。
  何かわからないものを振り切るように加速していました。空を見上げて晴れ間のほうに向かっていたはずが、やがて雨雲に囲まれて土砂降りの夕立に捕まりました。郵便局の軒下で雨宿りをしているうちにすっかり夕方になってしまい仕方なく山形市内に逆戻りです。
 おまけの東北ツーリングに続く・・・
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